トランス状態

フラメンコを見た。踊りは見せるためにおどるから、ダンサーは自覚しておどる。基本ステップ、基本的な振りを組み合わせて複雑なうごきをつくりあげていく。

けれど、意識的に構成していくだけでは完成しない。高揚し、のめりこんでいくこと、トランス状態が感動をうみだす。意識的なうごきと、忘我の状態のミックスが観客と一体になってステージをつくりだす。

中学1年の初夏、数学をひとりでまなびはじめた。教科書をはじめから解いて行った。(x+y)の二乗。この公式を理解し、簡単な問題をとく。最初のうちは公式を見てまねしていく。おぼえたとおもってもわすれ、まちがえる。また公式をみて確認する。けれど次第に公式が意識の底にしずんで楽にとけるようになる。次に(x+y)の三乗の公式、(x+y)(x−y)の公式と進む。それぞれをまなび、別々に公式として練習する。ときおり3つの区別がつかなくなり混乱することもあるけれど、やがて、意識せずにつかえるようになり、相互の関連が頭のなかで見えるようになる。自由につかえるようになる。

解いていくうちにある種のトランス状態になる。12才の子どもにとってのささやかなトランス状態だ。それをくりかえし、次第におおきな問題へのアタックに進化していく。基本から応用問題へとうつる。ながい時間がかかる問題へとかわる。トランス状態も、よりながくふかいものへとかわっていく。

こうしてわたしは数学にのめりこんでいった。

家で問題を解いている時間はたのしかった。自分であたらしいことをまなび、練習しトランス状態にはいっていくことがよろこびだった。けれど学校の授業はたいくつだった。授業を聴くふりをして、別のページの問題をといていた。

授業はいやだったけれど、試験はたのしかった。初見の問題をとく。おおくの問題は基本的なステップだけで解けたけれど、ときおりむずかしい問題もある。自宅で机にむかうのとはちがうけれど、それでもちょっとした熱中ができた。

ダンス。フラメンコもタヒチアンダンスもサンバもモダンダンスでもおなじだ。リズムを聴き、基本ステップが複雑にからみあうなかでトランス状態がおとずれる、観客としてそこにいるだけでわたしもトランス状態にはいっていく。