時をかける人

何かに習熟するには500時間、5000時間、15000時間の壁があるという。これだけの時間を超えることで初級、中級、上級になるという。才能の有無というけれど、とにかくこうした時間をかけることで向き不向きがわかってくる。そして時間をかけた人は技能がつくから、それだけの時間をかけなかった人には見えない世界が見えてくる。時間の壁をこえるには、誰もがおなじだけの時間をかけなければならない。

平均的な人間であるよりは、何か得意な分野があるほうが、切り口が明確だ。ゼネラリストよりスペシャリストがわたしはいい。10000時間を超えるとプロの領域に達するというから、ひとつのことをそれだけやってみるのがいい。もちろんあれこれとはできないから一つでも熱中することがあればいい。

わたしは数学に熱中しだしてから世界が変わっていった。単に知識というのではなく、学習法、アプローチなどが身について、世界がかわっていった。囲碁、将棋の棋士などが個々のコマの動きで追うだけではなく、碁盤などのパターンが読めて直感的に先が読めるようになっていくのとおなじだ。あるいはレーシングドライバーが、300kmを超える速度で運転をしながらも、スローモーションのようにコースを読み把握できるのとおなじだ。中学のころ、まわりの生徒、あるいは先生とは見えている世界はちがっていたとおもう。集中するふかさも次第にふかくなった。こうした世界はあれこれのことがらをやっても身に付かない。ひとつのことに集中することで見えて来る。

音楽を子供のころからスタートすると良い、というのはこうしたことがあるからだろう。わたしの経験からいって、数学などもそうだ。

英語をまなんだ後、他の外国語をまなんだとき、学習法にはそれほどこまらなかった。またスポーツクラブにかようことで、トレーニングの仕方が身についたためか、一人でトレーニングをするのは苦にならない。いったん身につけた学習方法は類似の内容の学習にも応用できるのだろう。(スポーツクラブと比べると、学校の体育はシステマティックでないのでこういう技術は身に付かないのではないだろうか。)

学校では万遍なく平均的にまなぶように言われたけれど、わたしはひとつのことに特化した訓練をつづける方が良いと思う。これは学歴だとか、職業とは関係無い。どのような生き方をしたいかという問題だ。