青春の書

若い時に夢中になって読む本がある。カラマーゾフの兄弟だとか、失われた時を求めて、だとかジャンクリストフのような大作は夢中になることで、読める本だ。けれどこうした小説だけが青春の書というわけではない。

わたしの場合は、物理の本だった。ファインマン物理学、ディラック量子力学と一般相対論の本、そしてボームの量子論の本だ。それぞれ著者の個性がとてもつよく出ている。

あるときファインマンの本を薦められた。さっそく買った。それまでハードカバーのちゃんとした本を買ったことがあまりなかったから、とても高価に感じた。赤い装丁の大きな本だった。力学の本を読むうちに夢中になった。まもなく電磁気学の本も買って、2つの本を並行して読むようになった。

このシリーズは講義録ということもあって読みやすかった。全部で2000ページ程度あったから、読むうちにファインマンのかんがえ方やかたり口が自分のなかにのりうつったようになった。ある程度の量をたっぷりと時間をかけて読むうちに、考え方が頭というよりも、体のなかにしみついていった。これは訓練だ。このシリーズを読みきるのに、数年かかった。もちろん学校などとは無関係に読んでいた。自分のなかでわきおこる疑問を丁寧にあつかいながら読んでいった。

そうこうするうちに量子力学が重要であることがわかってきた。ファインマンの本も読み進めたけれど、基本的な方程式がなかなか出てこなかった。それで本屋でながめて、ボームの本を買った。これも700ページほどあった。概念を丁寧に説明していてこれまた夢中になった。

ファインマンもボームもディラックのことを書いていた。そこでディラックの英文の本を買って読みはじめた。うつくしい装丁の本だった。これもまた夢中になって読んだ。英文であることなど気にならなかった。ディラックの英語はとてもシンプルで明快だった。くもりのない明快な論旨だった。こういう文章を書く人がいるのだと感動した。ディラックが気に入ったので一般相対論の本も読んだ。ごくうすい本で、ディラックらしく明快だった。

量子力学をまなんだ後、場の量子論をまなぼうとおもった。まずファインマンの量子電磁気学の講義録を読み、夢中になって計算した。明快だった。ただし、このころから、わたしの読書は青春の読書からは卒業していく。夢中になって読んではいるものの、青春の熱気のようなものからはさめていった。夢中であるとしても、青春の向こう見ずな情熱とはちがうものがあった。どこかしら冷静で論理的につきはなす自分がいた。

「青春とは、役に立たないことに対する情熱である」という言葉がある。こうした、ある種の熱狂的なエネルギーをわたしはとても貴重なものだとおもう。