老子

哲学、思想といわれるもののなかで中国の古代思想である老子が好きだ。これはプラグマティズムと相性がいいとおもう。古代中国と、現代のアメリカの思想で、時間的にも空間的にもずいぶんへだたったところで誕生したものだけれど、ちかいとおもう。

老子は自分でつくりだしているにすぎないおもいにとらわれるな、という。

生きる目的はなんだ、というような設問にはもともと関心がなかった。万人向きの一般的な目標や意味などないとかんがえていた。あるはずもない。それぞれが好きに決めればいいはずだ。夢中になれることはそれぞれちがう。好きなことに熱中できればいい。

「人がどうおもおうとかまわない」これは物理学者ファインマンの本の題名(原題)だけれど、そうおもう。自分が何をしたいか、するかがまずある。人がどうおもおうと、それでことがらが変わるわけではない。見栄、メンツ、それは実態ではない。おもいだけだ。そんなことを気にするのはむなしい。

どんなにゆたかになったとしても、食事の量はかわらない。一度に3食分は食べられない。ある程度歳をかさねてきたからおもうのかもしれない。いまのわたしは、生活できればいい。ゆっくりとねむることができ、食事ができること。犬や猫はいいなあとおもう。着替えがいらない。好きなところでそのまま休むことができる。猫ではないから、わたしには着るものが必要だけれど、すこしでいい。

老子に、夢からさめたとおもったらそれがまた夢だったという話がある。夢かうつつかまぼろしか。人とほとんど会わず、世界とのかかわりがすくなくなってきたせいかもしれない。