もしも

ヨーロッパの言葉をまなぶときのひとつの山場は、仮定法だとか条件法と呼ばれるものだ。実際におきたこととはことなる状況を想定し、「もしこうであったら、こうだったろう」といったことを表現する。

 

日常生活でふっとおもうことがある。「もしあのときこうしていたら、いまごろはどうだったろうか」と。あのときあれをまなんでいたら、この仕事をえらんでいたら、この人と出会っていたら、といったことだ。実際にはそれぞれが関係しているから、複数のことがらをすべて都合のよいようにかえることはできない。

 

現在の判断は、過去何年かの情報をもとにしている。それを過去にできたはずはない。そのときにはそのときなりの状況があって選択をしてきたはずだ。けれど、それでもこうしたことをかんがえることは誰にもあるだろう。そして、ふっと心が苦しくなるときが。

 

これからつくることができるのは、未来だ。未来なら自分の力でつくることができる。まなんだり、なにかをしたり、人と会うことができる。

 

決して多くの時間をかんがえるわけではない。5年間。仮に5年間の寿命だとしたら何をするだろう。あるいは1年間だけとかんがえるとき、何をするだろう。人と会い、行きたいところに行き、読みかけの本を読みおえようとするだろう。おおくのことがらがあるわけではない。

 

仮に多くの時間があるとしても、健康や経済状態がいつまでも良いとはかぎらない。優先順位のたかいことからはじめていこうとおもう。