表現

心とはなんだろう。もちろんそれだけをかんがえていても答はみつからない。こころが表にあらわれた表現ならばあつかうことができる。

人との話、あるいは自分で書いた文章でもいい。絵や音楽などの表現。そうやって外部に取り出された表現をかんがえる。もちろんこのように明確にとりだされたものだけが表現ではない。表情、身のこなしなどもある。イメージなど言葉にならないものの方が実ははるかにおおいだろう。それでも表現することで心のエネルギーとしてとりだすことができる。

古典的な恋愛ドラマは、話をしたり、告白をしないことが原因になっている。おもいがたくさんあるけれど、つたえない。もどかしさをドラマとする。告白してだめでした、次にどうしましょう、という課題解決では恋愛ドラマにはならないのだろう。いわなければつたわらないとかんがえて、明確に語り合う人どうしの恋愛ドラマをつくるとどうなるだろう。

一方、表現することだけをもとめられて、心がないときは、とてもこまる。

表現にかかわる科目は、学科目といえるのだろうか。中学のときに美術がいやだった。美術の時間では表現技法がきめられた。たとえば音楽を聴いて、それをくろい紙の上に白のパステルで幾何学的な立体図形により表現しなさい、といった課題が出た。

わたしには何も描かない白い紙あるいは黒い紙の方がうつくしいとおもえた。なぜよごすのか。あるいはこころがうごかされたわけでもないのに、なぜ、えがかなければならないのか。もちろん先生が期待しているものは想像がついた。まわりにいる数人を見て、その平均的なところにあわせればなんとか作品はつくれる。けれど実際のところ期待されているのは、心の表現なのではないのか、それとも単なる作業なのだろうか。わたしにはわからなかった。表現したいものがないのに、課題を完成させ提出させられるのは苦痛だった。これは作業の時間なのだろうか。

授業の最初に課題があたえられた。そうしたとき、わたしは手をあげて、こうしたかんがえを発言した。研究授業だったので、他の先生や、よその学校の先生も来ていた。先生の返事はおぼえていないけれど、それ以来、先生との関係はわるくなった。美術の成績は3年間ずっと、5段階評価の3だった。

体育も体による表現だろう。体育でも、なぜこれをするのか、技術をおしえるわけでもなく、参加するだけでいいのですね、と疑義をとなえたら、先生におこられた。言われたことをすればいいのだ、と。