シブミ

知り合いのアメリカ人に「あなたはこの本が気に入るんじゃないか」といってもらった本。ニコライ・ヘルという暗殺者を主人公とした小説で、とてもおもしろかった。プレゼントしてくれた人は、底流にながれる価値観がわたしの嗜好にあっているとおもったのだろう。わたしにとっては、はじめて英文できちんと読んだ小説だった。しかも夢中になって読んだ小説だった。作者はTrevenian。なぞの作家ということになっていたが、死後その正体があきらかになった。

1972年のミュンヘンオリンピック。「黒い九月」というパレスチナゲリラグループが、「オリンピック村を襲撃し、イスラエル人選手を殺害した。殺害された選手の中には、ニコライ・ヘルの友人であるアサ・スターンの息子が含まれていた。スターンは、報復のため「ミュンヘンファイヴ」という少人数のグループを組織する。このことを巨大組織、マザー・カンパニーが察知し、「ミュンヘンファイヴ」を抹殺しようとする。マザー・カンパニーは石油利権を支配し、アラブと友好関係を結んでいた。彼らはアメリカのCIAを支配するほどの力をもっていた。

CIAとアラブはローマ空港で、「ミュンヘンファイヴ」を一掃しようとする。激しい銃撃戦になったが、アサ・スターンの姪であるハンナを取り逃がしてしまう。アンナはバスク地方に住む孤高の暗殺者ニコライ・ヘルのもとに逃げた。バスクは、スペインのなかにあって、ヨーロッパ言語とはことなる言語をはなす地域だ。

ヘルは、亡命ロシア貴族の子供として第2次世界大戦以前に上海で生まれた。上海が華やかだったころだ。そして子どものころ、日本人の岸川将軍から“シブミ”の思想を学び、青年期に大竹七段から囲碁をならった。岸川さんはヘルに次のように話して聞かせていた。「ごくありふれた外見の裏にひそむきわめて洗練されたものをシブミという。この上なく的確であるために目立つ必要がなく、はげしく心にせまるために現実のものである必要がない。知識ではなく知性だ。人の場合でいえば、支配力をもたないけれど権威ある人をかんがえればいい。」一方、囲碁はかれに、読みの深さと判断する力をあたえる。やがてこうした精神性は生来の資質とあいまって、必殺の奥義を彼に身につけさせる。

やがて、日本は第2次世界戦争に負け、岸川さんは米軍にとらえられる。彼は軍事裁判にかけられ、屈辱的な目に会うことになるだろう。面会に行ったヘルは、岸川さんから武士道精神の体現者として、名誉ある死を手に入れたいと言われ、その手伝いをする。しかしそのために、ヘルはとらえられ、拷問を受けた。

マザー・カンパニーは巨大なコンピュータを持って全世界の情報を収集し、世界を管理しようとしていた。通称ファットボーイと呼ばれるコンピュータが、最重要警戒人物としていた人物は、世界屈指の暗殺者であるヘルその人だった。

ヘルはハンナをまもろうと決意する。しかしマザー・カンパニーはヘルを追い、ハンナはころされてしまう。ヘルを追う幹部はミスタ・ダイアモンド。彼の弟はかつてヘルを拷問し、後にヘルにころされていた。圧倒的な情報処理力をもつコンピュータに対し、ヘルはシブミをもって対峙する。過去のデータにもとづくコンピュータ解析と、囲碁を通じて得られた未来に対するふかい読みと洗練された知性とのたたかい。

拝金主義・商業主義・物質主義あるいはプラスチック文化と、洗練された精神性とのたたかい。彼の友人は言う。「金に換算できないものの価値をしらなければならない。」

ヘルはたたかいに勝利し、バスクにある日本庭園にかえってくる。そこで愛する盲目の美女ハナと愛のひとときをすごす。しかし彼にはわかっていた。個人と組織では、たたかいにはならないことを。数人に勝ったところで、組織はつぶれない。第2のミスタ・ダイアモンドがあらわれてくるだろう。やがてマザー・カンパニーはここをおそってくるだろう。ヘルがつくりあげた洗練されたこの日本庭園は既に破壊されており、まもなくハナも自分の命もあやうくなるだろう。ヘルはおもう。なにがあろうと、岸川さんのもとですごした幸福な時間、シブミのよろこび、囲碁の深遠な世界であそびすごした時間、そうした幸福だった時間は誰にも消すことはできない、と。