読むこと

まなびの基本は、「読み、書き、計算」だとしみじみおもう。人はことばをつかってかんがえる。だからことばをまなぶことは基本だ。日常のことばとしての日本語の読み書き、そして日本語の鏡としての英語、自然科学の言葉としての数学、をまなぶことは基本だ。英語や数学をまなぶのは実用のためだけではない。歴史や道徳、経済、環境、福祉などをおしえようという議論があるけれど、読む題材のひとつとしてとりあげることでなんとかなる。その前提となるのはまず読む力だ。

読み書きを身につけたときのことをふりかえってみようとおもう。決して簡単ではなかった。

わたしの母は小学校以前に読み書きができるようになり、ちいさなときから本を読んでいたという。この経験から、すこしぐらいはやく読み書きができたり、何かができたところで、たいしたことではないとかんがえていた。そのため、わたしには小学校に入るまで文字も数字もおしえようとはしなかった。わたしは小学校に入学して、文字と数字をならった。もちろんそれだけでは読めるようにはならない。多くの文章を読むことで、人は読めるようになる。わたしの場合、時間がかかった。

夏休みの課題の読書のために親が絵本を買ってくれた。けれどつまらなかった。子供用の本だからといって、かならずしもおもしろいわけではないのだとおもった。一方、家にあった平凡社の児童百科事典は絵を見るのがたのしくて、ちいさなころからながめていた。それを読むようになった。昭和初期に出版された児童文庫が何十冊か家にあった。旧仮名遣いの本だったけれど、おもしろいので読んだ。学校にあったドリトル先生シリーズ11冊は夢中になって読んだ。そうこうしているうちに本を読むことが苦にならなくなった。

低学年のころ作文がちっともかけなかった。好きなことを書いていいといわれても、物語や文章のパターンが頭の中にないのだから、書けるわけがない。本を読むようになってしばらくして書けるようになった。

中学にはいった。なんのために国語の授業があるのかわからなかった。「それは何をさすのか」などという質問は自明な質問だとおもった。この授業は一体なんなのだろう。読み書きができるようになれば、もう国語の授業はいらないのだ、とおもった。

一方、中学で英語をまなびはじめたものの、一体どれだけまなべば良いのかわからなくて不安だった。3年生になって英文法の本を読んではじめて、英語の大枠がわかった。フレームワークはこれでおさえられる、とおもった。

中学の英語は突破できたものの、高校に入って2つの壁に出会った。ひとつは複雑な文章がよめなかったこと、もうひとつは単語だった。

複雑な文。関係代名詞や副詞句あるいは挿入節などがはいることで、文はながく複雑になる。それをどう読み解けばよいのか。けれど、伊藤和夫さんの参考書を読むうちにこれが氷解していった。こうして複雑な構成をもつ文に慣れていった。わたしは英語を通じて、言語の構造と機能をまなんだ。それは日本語だけをまなんでいたのでは決して得られない内容だった。日本語をうつしだす英語という鏡が必要だった。そして、ことばをかんがえることは、論理の構造をかんがえることだとおもった。

単語。試験に出る英単語という本に出会った。この本にある単語数は1300程度でけっしておおくはない。けれど、日本語訳をみておどろいた。まず知性、良心、文化・文明、宗教、偏見といった単語が出てきた。こんな日本語をつかった文章をそれまで読んだことがなかった。この本で提示されたのは一定の知的水準の文章を読むための単語だった。この単語集を読み、おぼえ、こうした単語をつかった伊藤さんの参考書の文章を読むうちに、あたらしい世界に慣れていった。

その後、英語の参考書ではなく、英語で物理や数学の本を読むようになった。多くの文章を読むうちに英語であることは気にならなくなった。言葉の問題ではなく内容そのものとの格闘になった。そして頭の中に英文のストックが増えるにつれ、英文が書けるようになった。

一方そのころ、フランス語をまなびはじめた。フランス語の学習では動詞の活用などをおぼえることには苦労したけれど、文の構造は英語のフレームワークがあるので苦にならなかった。

けれど別の問題があった。英語ではアメリカやイギリスの文化を教えようはしない。ニュートラルな道具とかんがえている。また英語を英語として読むことと、日本語に訳すことは別だとしていた。ところがフランス語の講座ではフランス文化をつたえようとしていた。教材は文学作品からとりあげられ、訳したり、暗唱するように言われた。けれど、小説は言語活動から見ると特殊なものだ。そしてフランスや小説などの背景知識がないとわかりにくい文章がとりあげられた。構文など言語そのものに集中させるのではなく、背景知識の学習をももとめていた。これは純粋な外国語学習とはちがう。さらにフランス語に対応させた、ながい日本語訳がこのまれることにも閉口した。言語学習とはいえ、フランス文化や文学に寄っていて、苦労した。

フランス語の読み書きはまだ自由にできない。読めるようになるためには、もっと読まなければいけない。

こうしたことはあるにせよ、英語やフランス語をまなんだことで、わたしの日本語はきたえられ、言語のひとつとして相対化された。わたしは、ことばの機能に自覚的になった。

読めるようになるための努力をすることで、わたしは、わたし自身についても読んだようにおもう。