わすれること

おおくのことをわすれている。いや、そもそも、おぼえていなかったのかもしれない。特に20代後半以降のことを、あまりおぼえていない。さまざまな仕事や、会った人のこと。もともと人の名前をおぼえるのは苦手だった。ときどき会っているならば人のことをおぼえているかもしれないけれど、会っていない人のことは、どんどん記憶から消えていく。

今までやってきたことに関連する資料をいずれ整理しようとおもって、とってあるけれど、どうやら処分してもよさそうだ。きっと今後、見なおすことなどないだろう。たくさんある名刺も大半は処分してよさそうだ。そうして、資料が減っていく。良いことだとおもう。

わすれるというのは、きっと心を自由にするはたらきなのだろう。

過去の雑多な記憶が消え、今だけがのこる。こうして心がかるくなる。身軽に、自由になりなさいという、自然からのプレゼントなのだろう。

フィッシュ アンド チップス

魚を買いにいった。ムニエルやフライ用の白身の魚が欲しいとおもっていたのだけれど、ちょうど適当なものがなかった。刺身用の魚がおおかった。

中華料理やフランス料理とはいわないけれど、火を使った魚料理を食べたいとおもった。

たとえばフィッシュ アンド チップス。アメリカからはハンバーガーの店がずいぶんはいっているし、ピザやパスタの店もあちこちにある。けれどイギリスの大衆食であるフィッシュ アンド チップスの店を見かけることはない。

フィッシュ アンド チップスが食べたいとおもった。

デザインスタイル

子供の頃、家にあった西洋美術全集をときどきながめた。中世の西洋絵画は宗教画としてかかれたものがおおく、題材や色調がくらかった。そしてなにより、装飾過剰に見えた。もっとあとの時代だと、セザンヌの女性はふとっていたし、ユトリロの女性の首はながく奇妙だった。ダビンチのモナリザにしても美人とはおもえなかったし、荒々しい山を背景としていて奇妙だった。

建築なども装飾過剰で、こうした創作をしなければいけないのなら、美術はむかないとおもった。ガウディのサグラダ・ファミリアカサ・バトリョなどは、見るだけなら良いけれど、自分の空間にはしたくないとおもった。美術の教科書などでも、こうした作品がのっていた。美術は装飾のことなのだとおもっていて、好きになれなかった。(子どもに美術をおしえようとすると、きっとこうした題材で精一杯なのだろう。)

けれど大人になって、何人かのデザイナーとしたしくなって、別のスタイルがあることをおしえてもらった。バウハウスデザインや北欧デザイン。デザイン研究所の所長はバウハウスについてくわしくおしえてくれた。さらに建築家としたしくなると、ル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエといった建築家を知ることになった。そして、すこしずつこうした作品を見るようになった。こうしたモダンデザインはすっきりとしていて気に入った。

椅子ひとつとってもフランスや英国の装飾的なものもあれば、イタリア、ドイツ、北欧などの製品のようにシンプルな曲線を生かしたものもある。特にデンマークヤコブセンやハンス・ウェグナーの曲線のうつくしさに惹かれた。

そして日本にもまたこうしたデザインがあることを知った。建築の安藤忠雄民芸運動の流れ、各地の家具職人の作り出す椅子などだ。そして長野の山奥を本拠地とする家具職人の人ともしたしくなった。カトラリーや食器づくりの人とも話をするようになった。そうしたものは絵画や彫刻とはちがうかもしれないけれど、やはりアートだ。デザインのスタイルにはさまざまなものがあるということを知った。それはおおきなよろこびだった。

建築家と話をしたときにこんな話をした。大切なのは機能としての空間だとおもいます。空間をしきる壁そのものが意識にのこるのはどうなのでしょうか。空間の仕切りに視覚的なノイズがあるのは好きではありません。ノイズがすくなくて空間が快適な建築や壁が好きです。

こどものころから美術に感じてきた印象だった。

 

かもめ食堂

好きな映画。ハリウッド映画のような派手な映像や、起承転結のはっきりした物語があるわけではなく、たんたんとした日常がえがかれる。心のなかにふかくはいりこんでくる。

舞台はフィンランドの首都ヘルシンキ。ここで食堂をはじめたばかりの日本女性とそこにきた女性2人の3人の女性を中心にえがかれる。北欧デザインの清楚なテーブル、椅子、食器。登場人物の一人が日本からの着の身着のままの服から、フィンランドマリメッコの服に変わり、一気にフィンランドのあざやかな色彩にかわる。映像は北欧らしくシンプルで清潔感にあふれている。そして映画から感じる印象も透明感にあふれている。

主人公はおにぎりという簡素な食事を出す。おいしいコーヒーを入れる。そうした食が人に元気をあたえる。こどものころからしているという合気道の動きはほほえみをさそうとともに、つよいこころを感じさせる。かよっている公営プールの場面は水の透明感がうつくしい。

コミュニケーション。涙をこぼそうとする人に、声をかけるのではなく、そっとティッシュを目の前におく。人にはあえてふかくは踏み込まない。フィンランド語がわからないけれど、話を聴き、寄り添うことで人が元気になる。凛とした芯のつよさ、やさしさがつたわってくる。

設定、登場人物、色彩がシンプルに整理されている。北欧らしい透明感にあふれ、おもいでにのこっている映画だ。

3ヶ月

このCDを聴くと英語ができるようになる、あるいはこの機械をつかえば腹筋の力がつき、やせることができる、といった宣伝がある。すばらしい、とおもう。わずか5分でいい、というのはおかしい、という人もいるけれど、やれば効果はあるとおもう。

けれど大変なのは「すること」。5分でも毎日つづけることは大変だ。もし毎日5分することができるようになったらば、それを10分、15分とすることはそれほどむずかしくない。大変なのは、毎日わすれずにCDを聴いたり、機械をつかって運動すること。多分それぞれの教材や機械の内容は良いだろうとおもう。

大切なのはとにかく3ヶ月つづけること。毎日5分でいいからつづけること。

毎日はしるようになって3ヶ月たった。雨の日などは、はしっていない。だから厳密には毎日ではないけれど、ほぼ毎日はしっている。コースは多少変えたところがある。水飲み場などがある公園の脇や、時計が見えるところをとおるようにした。慣れるにつれて、はしるのははやくなり、走行時間がみじかくなってきた。けれど距離をながくするといったことはしていない。同じコースで良いので、つづけようとおもう。

3ヶ月もすると体のなかの細胞は半分ぐらい入れ替わるという。だから3ヶ月前のわたしと今とでは物質的にかなり入れ替わっているはずだ。体重は1キロほどへった。ウェストは多少ほそくなったようだ。どんな分野でも、とにかく3ヶ月はつづけてごらん、というけれど、なるほど、とおもう。

学校の体育ではしるのは苦手できらいだったけれど、いまは好きだ。かぎりなくゆっくりと、「一人で、人のことを気にせず」はしるのは、気持ちがいい。きっとはしることはわたしに合っているのだろう。

三木清は人生論ノートのなかで、人生で大切なことは、習慣を自分で身につけられるようになることだ、と書いていた。この本を10代の頃読んだとき、なるほど、とおもった。このところ、わたしはおもう。自分で好きなことならば、つづけられる。そして、どうやら、「このみ」はほとんどかわらない。だから、3ヶ月つづけられるかどうかやってみて、すきなことを見つければ良い。つづけられることが、きっと好きなこと、なのだろう。

Sarah

今年、サラ・オレインのCD、Sarahをよく聴いた。はじめて聴いた時、気付かないうちに涙がながれていた。家で無防備に聴いていて、心にガードがかかっていなかった。こういうCDは家でひとりで聴くもので、人前では聴けない。

特にBeyond the Skyという曲を繰りかえし聴いた。
英語版と日本語版の歌詞の内容はまったくおなじではないけれど、いずれにしてもふたりの人の語りかけになっている。自由で独立した人の間の、かたりかけ。深いところでの心の交流。ふたりが同じ方向をむいていることがわかる。音楽、歌詞、歌、がつくりだす世界に溶け込んだ。

英語版だと語末の子音の破裂音が効果的だ。つよい意思を感じさせる部分での破裂音と、やさしさを表現するまろやかな音の対比。韻のうつくしさがはっきりとつたわってくる。

にごりがなく透明感のある声。ひろがりのあるメロディ。こうした曲が今の日本でつくられ、演奏・録音されたことにおどろいたし、耳にとどいたことをこころから感謝している。

ボサノバギター

今年の夏、ギタリストの佐藤正美さんが亡くなった。一昨年、佐藤さんと食事をした。あらかじめ買いたいとおねがいしていたCD3枚をそのとき持ってきてくれて、目の前で1枚1枚にサインをしてくれた。

わたしは佐藤さんを通じておおくのボサノバを聴いた。いまもこのとき手に入れたHealing Bossa3枚をよく聴く。初夏にさわやかな風が吹き抜けていくような音楽。「かるみ」ということをおもう。深刻になりなさんな、そんな声が聞こえてくるような気がする。

あの日もすばらしいギターの演奏をたのしんだ。

ご冥福をおいのりする。