Tシャツ

衣類をかたづけている。Tシャツ。Tシャツにはそれぞれおもいでがあるけれど、数枚をのこして処分する。マラソン大会などに参加した時のもの、国際会議、あるいは旅先で買ったものなどを、処分する。着ているうちにいたんだものや、変色したものもある。小説家の村上春樹さんは、マラソン大会に参加した時のTシャツは大切にとってあるという。それぞれにおもいでがあるという。けれど、わたしの場合、おもいでは記憶のなかにあればいいので、古いTシャツはいらない。人が見ても単にふるくきたない服でしかないだろう。

このほかにも、もう着ないと思う服がある。そういうものもこれから処分していこう。衣類は着るわずかの服があればいい。必要になるまで、新品を店にあずけてあるとおもえばいい。

ゆっくりとではあるけれど、持ち物を少しずつ整理していこうとおもう。

第九交響楽


年末になるとあちこちでベートーベンの第九交響曲の演奏会がひらかれる。

中学の時、試験で名曲と思う曲は何か、という問題が出ると言われていた。そしてそのときはこの曲を書けば良いといわれていた。けれど、わたしはこのシラーの詩が、いやだったので、ドビッシーとラベルについて書いた。ベートーベンはシラーの詩に感動してこの曲を作曲したという。当時の学校には、「みんなで、全員一致で団結して」といった空気があって、それがいやだった。シラーの詩はそれに対応していると感じていたのだ。ドビッシーやラベルの歌詞のない、個人的な、音そのものにうったえかける音楽が好きだった。

けれど、音楽として、この曲はけっしてきらいではない。

第九交響曲をベースにしたポピュラーの曲がある。平原綾香が第3楽章をベースにつくったLove Story、そして第4楽章をベースとしたJoyful Joyfuyl。Love Storyは日本語の歌としてはめずらしい愛の歌で、オペラのアリアのような歌詞。とても気に入っている。この曲を平原綾香以外の人の歌でも聴いてみたいおもう。後者はたまに耳にすることがある。アメリカでシラーの詩を元につくったらこんな印象になるだろう、といった印象を受ける曲だ。

 

パイプオルガン

パイプオルガンを聴きに行った。オルガンは年に何度か聴くけれど、この日は午後の演奏だった。帰宅が遅くならないので、気軽に行ける。

演奏会の前に、近くの喫茶店で紅茶を飲み、本をひらく。静かな時がながれていく。そして会場に行く。しあわせな時間。

音楽は日常の世界から非日常の世界への通り道だ。オルガンはそのための巨大な装置。演奏者ははるか高いところにすわる。そのさらに上に銀色に輝くパイプがたかくそびえたつ。暗闇の中にライトアップされたパイプは天空にのびるかのようだ。広大な空間と、わずかばかりの聴き手。バッハは異世界への音楽を意識し、その作り手としての技をきわめた。すべての準備がととのった。最初の音がひびき、一気にひきこまれていく。こちらの世界からあちらの世界へ。

演奏が終わり、落ち葉を踏みしめてあるく。ささやかだけれど、わたしにとって満ち足りた時間だった。

異邦人

二十歳の頃アルベール・カミュの小説「異邦人」を読んだ。あまり感じるものはなかった。最近このさわりを読みなおして、感じるものがあった。この本は日本に紹介された当時、きっと強い印象をあたえただろうとおもうけれど、社会的規範がかわった今、どのようにうけとられているのだろう。

この本の元の題名はエトランジェと言い、「よそもの」という意味だ。異邦人という訳は、わかったようでわからない。ミステリアスな印象があるので、日本語の表題としては良いのかもしれない。特定の社会に通じる社会通念、道徳、常識といったものを無視する人、あるいはそれからはずれた人といった意味だ。

この小説は不条理の小説といわれるらしいが、これまた意味がわかりにくいことばだ。不条理とは、合理的でないこと、もっといえば常識に反していることだ。このため、ある一定の社会的規範=決まりごと、でうごいている安定的な社会からはみ出すことになる。

主人公はムルソーという男性。彼の母親は老人ホームに入っていたが亡くなる。ムルソーに知らせの電報がとどく。かれは早速、葬式のために養老院に行く。けれどかれは涙をながさず、感情をしめさなかった。葬式の翌日、たまたま知り合いの女性と出会い、一夜を共にする。そして普段とあまりかわらない生活をする。その後、友人のトラブルにまきこまれ、アラブ人を射殺してしまう。かれは逮捕され、裁判にかけられる。

裁判では、母親が死んでからのかれの行動が問題となる。普段とかわらない行動であったため、人間味がないと糾弾される。殺人の動機を問われたムルソーは、「太陽がまぶしかったから」と発言した。裁判の判決は死刑であった。監獄に入ったかれの元に、司祭がおとずれる。懺悔を勧められるがムルソーは、かれを追いかえす。かれの最後の希望は、死刑の時に人々から罵声をあびせられることだった。

二十歳のころ、わたしは世の中のルールがしっかりとある、ということを現実的な意味でわからなかった。ルールは自分(たち)で構成していけば良いとおもっていた。このため社会的通念にそむいているから責められる、というムルソーの位置付けがわからなかった。むしろムルソーの視点の方が理解しやすかった。母親の死に対する外面的な反応は果たして社会通念通りでなければならないのか?喪中にあっては日常的なリズムを守ることはいけないのか。主人公の女性との交際はいつも通りであってはならないのか。殺人は突発的な事件によるもので、自分に非が無いとかんがえている人間が懺悔をしなければならないとかんがえなければならないのか。あるいはフランス人だからといって、キリスト教信者でなければならないのか、無神論者にちかいムルソーにとって神とは意味を持つのだろうか。そうした疑問があった。執筆当時にあって、カミュはこうした問題を提示したのだろうけれど、わたしにはこたえは自明のようにおもえた。おそらくムルソーを糾弾する人間の立場を理解しなければ、この小説の衝撃はわからなかったのだろう。その意味で二十歳のころのわたしにはこの小説は理解できなかった。一方、死刑の際に多くの人から罵声を浴びせられたい、というムルソーの気持ちを自分なりに理解していた。それは価値観の違いをはっきりと確認し、死んでいきたいということで、優越感を味わいながら死ぬことではないか、とおもっていた。

エトランジェであること、つまり一つの社会でよそものとして生きるということは、超越的な立場で生きること。そして不条理とは常識に反していることというよりもむしろ、常識を疑い社会通念を構築する知性を持っていること、とかんがえていた。中学時代、学校となじめなかったため自分で生きるためのルールをつくりあげてきたので、それは当然のことだとおもっていた。

その後、学校を終えて生きてきておもった。世の中には多くのルールが存在する。なかには合理的なものもあるけれど、かなりの部分が単なる慣習のつみかさねにすぎない。そして、こうしたルールは世の中では大きな力をもっていて、おおくのひとはそれにしたがっている。それを無視したりさからうにはかなりの力がいる。けれど、ルールを冷徹にみなおしていくことには意味がある。

この本が日本に紹介されたころとは今の日本の状況はかわっている。ルールは弱まっているようにおもうけれど、人があつまって生きている以上、なんらかのルールはある。地縁的なルールは弱まっているかもしれないけれど、時折古典的な価値観が現れてくる。若い人たちを中心に反抗するのは自然なことだろう。わたしには決して難解ではなく、わかりやすい小説と感じられるのだけれど、今、この本はどう受け取られるているのだろう。

 

読書

何冊かの本を読みたい、とおもっていた。おおきかったりおもかったりして持ちあるくのに不便な本や、辞書をひかないといけないために手軽には読めない本だ。電車の中では読むのはむずかしくて、読まなかった。けれど、いよいよ読むことにした。時間をかけていい。たくさんあるわけではないので、数年もあれば読み終わるだろう。そうして、何も読むものがない、と言えるようになればいいなとおもう。

読みはじめたところ、ここ1ヶ月で、さっそく1冊読み終わった。夏から、すこしずつ読んでいたので、予想していたよりもはやくよみおわった。フランス語読解のための演習書で、フランスの作家の様々な文章をあつめた本だ。ジャック・プレベールの詩やアルベール・カミュフランソワーズ・サガンの文章の断片を読んだ。二十歳のころには感じなかったけれど、今では感じることがいろいろとあって、たのしかった。これでしばらくはフランス語にかかわることはないだろう。

次の本はおおきくておもい。これもまた少し前から読みはじめたものの、なかなか読めず中断していた。この本1冊だけは何としても読みたい。それまでは事故に遭いませんように病気をしませんように、とおもう。あせらず読んでいこうとおもう。

カンツオーネ

歌のことをフランスではシャンソンと言い、イタリアではカンツオーネと言う。そのとおりなのだけれど、日本人がおもい浮かべるシャンソンやカンツオーネは特定のタイプのものだ。カンツオーネでは、あまいテノールで歌われるものがおもい浮かぶ。わたしはカンツオーネのあかるさが好きだ。このところ良く聴くのは、IL Volo (The Flight 、飛ぶこと)というわかい3人組のグループ。彼らはまだ10代のときにデビューしていて、今もまだわかい。

彼らの2つの曲について書こう。

最初に、「IL MONDO(この世界)」。1965年にジミー・フォンタナがヒットさせた曲で、イタリアらしい愛の歌。英語での歌も一度聞いたことがあるけれど、なんだか違和感があった。聴くときはイタリア語で聴きたいとおもう。

この歌は女性もうたっている。イタリアではミルバがうたっているし、もっとしっとりとうたっている人もいる。こんな歌を歌われたら頭のなかはとろけてしまう。わたしはIL Voloの抜けるようなあまい歌声のバージョンが好きだけれど、年配の大人が歌ってもイタリア語やフランス語ならば、違和感なく心の中にはいり込んでくる。日本語だときっと違和感があるだろう。

訳してみよう。
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”IL MONDO(この世界)”

そばにいて、ぼくのそばにいて欲しい
決してはなれないと言って
どれほど君を愛しているのか、
どれほど君を必要としているのか、
どうか信じて
君の腕のなかにいれば、ぼくはしあわせ
君の唇でぼくはしあわせになれる

この世界、君の愛こそぼくが欲しいもの
ぼくのこの世界で、優しいキスにかけて、どうかお願い
君なしでどうやって生きていけばいいのだろう
この世界、僕の心は君にとらわれている
どうかそのおもいをわかって
そして、決して、はなれないと約束して
ずっとぼくの腕の中にいると言って

世界はまわる、宇宙で終わることなくまわる
たった今生まれた愛、そして過ぎていった愛とともに
ぼくのような人々のよろこびとかなしみとともに

この世界で、ぼくは今、君を見ることができるだけ
君の声が聞こえなくなると、ぼくは消えてしまう
君の前で、ぼくはちいさな存在
この世界はすこしも止まったりはしない
夜が終われば昼が来る
そう、昼が来るのさ

この世界、この世界
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二番目の歌は、"La luna hizo esto(月のせいさ)”という曲。これもまた、あまくとろけるような曲で、歌詞はスペイン語だ。イタリア語、スペイン語などラテン系のことばはこうした内容にとても合う。(子音がつづき、母音や濁音がすくないせいだろうか)
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"La luna hizo esto(月のせいさ)”

それは月のせいさ
月がしてしまったのさ
ぼくが恋に落ちたこと
君との恋に落ちたこと
月のかがやきは、君の瞳のなかにあるぼくの幸せ
それは月のせいさ

月がゆっくりとしたんだ
ぼくのこころを燃え上がらせてしまったんだ

そんなやさしいことをしてくれたことにお礼しよう
月がぼくの心に魔法をかけたのさ
恋に落ちることなんてかんがえたこともなかった
月のせいで夢が現実になったんだ
いま、君はぼくの世界

月のせいさ
月がしてしまったのさ
月がこんなことをしたんだ

ぼくが恋に落ちるなんてかんがえたこともなかった
月のせいで夢が現実になったんだ
いま、君はぼくの世界

月のせいさ
月がしてしまったのさ
ぼくが恋に落ちたこと
君との恋に落ちたこと
月のかがやきは、君の瞳のなかにあるぼくの幸せ

これは月のせいなんだ
これは月のせいなんだ
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会話

セミナーに出席した後、たまに行く店に立ち寄り、カウンターにすわって簡単な食事をした。ここはできてからまもなく1年になる。ちいさいけれど、快適だ。コンクリートで囲まれた、しずかな店。特別におしゃれできれいな店というわけではない。けれど、気に入っている。ここに来るとリラックスできる。人と一緒に来たことはない。わたしにとってこんな店があるのは不思議だ。

ひとつ間をおいて隣に外国人の女性がすわった。どちらからともなく話をした。彼女はアメリカ人で南カリフォルニアに住んでいるという。仕事を辞め、2週間の予定で旅行している。京都で見た紅葉はきれいだった。日本に来て、英語で話をしたのはこれが2回目。あなたはきれいな英語をはなすけれど、どうしてはなせるの。ありがとう、英語は学校でならったから、はなせます。そうですね、英語をはなすこと自体はあまりむずかしくないです。それより、日本語であっても人と話をするのは、必ずしも得意ではないです。人と人とがはなすとき、相手のものの見方によって、話が通じることもあれば、通じないこともありますよね。ことば以前のそういうことが大切だとおもいます。話が通じる人と出会うのはなかなか大変ですよね。

お互いにグラスを手にとって、そんな話をしていた。こんな風にリラックスして人と話をするのはひさしぶりだ。なぜだろう。この場所がわたしをリラックスさせてくれたのかもしれない。

彼女はこの2週間で2回しかちゃんと話をしていないという。けれどわたしだってたいしてちがわない。あまり人とはなすことはない。事柄をめぐる話はすることがあるけれど、それは話を呼べるものなのだろうか。切符の自動販売機にお金を入れるようなものだったのかもしれない。

このところ、交流のあった様々な人から、送別会をしてもらった。セミナーでは挨拶をした。けれどこうした日々がおわり、しずかな生活がはじまる。人とはなすことはすくなくなるだろう。

人と会いたければ自分から連絡すればいい。けれど、わたしが会いたいからといって、相手がこちらと会いたいかどうかはわからない。コミュニュケーションのジレンマだ。人と人との関係は、基本的に片思いだ。だから会ってくれるかどうか、両思いであること、をそのたびに確認していく。こうしたステップをかんがえると、人と会うことに躊躇してしまう。

ちゃんと話をしたのはひさしぶりだった。