異邦人

二十歳の頃アルベール・カミュの小説「異邦人」を読んだ。あまり感じるものはなかった。最近このさわりを読みなおして、感じるものがあった。この本は日本に紹介された当時、きっと強い印象をあたえただろうとおもうけれど、社会的規範がかわった今、どのようにうけとられているのだろう。

この本の元の題名はエトランジェと言い、「よそもの」という意味だ。異邦人という訳は、わかったようでわからない。ミステリアスな印象があるので、日本語の表題としては良いのかもしれない。特定の社会に通じる社会通念、道徳、常識といったものを無視する人、あるいはそれからはずれた人といった意味だ。

この小説は不条理の小説といわれるらしいが、これまた意味がわかりにくいことばだ。不条理とは、合理的でないこと、もっといえば常識に反していることだ。このため、ある一定の社会的規範=決まりごと、でうごいている安定的な社会からはみ出すことになる。

主人公はムルソーという男性。彼の母親は老人ホームに入っていたが亡くなる。ムルソーに知らせの電報がとどく。かれは早速、葬式のために養老院に行く。けれどかれは涙をながさず、感情をしめさなかった。葬式の翌日、たまたま知り合いの女性と出会い、一夜を共にする。そして普段とあまりかわらない生活をする。その後、友人のトラブルにまきこまれ、アラブ人を射殺してしまう。かれは逮捕され、裁判にかけられる。

裁判では、母親が死んでからのかれの行動が問題となる。普段とかわらない行動であったため、人間味がないと糾弾される。殺人の動機を問われたムルソーは、「太陽がまぶしかったから」と発言した。裁判の判決は死刑であった。監獄に入ったかれの元に、司祭がおとずれる。懺悔を勧められるがムルソーは、かれを追いかえす。かれの最後の希望は、死刑の時に人々から罵声をあびせられることだった。

二十歳のころ、わたしは世の中のルールがしっかりとある、ということを現実的な意味でわからなかった。ルールは自分(たち)で構成していけば良いとおもっていた。このため社会的通念にそむいているから責められる、というムルソーの位置付けがわからなかった。むしろムルソーの視点の方が理解しやすかった。母親の死に対する外面的な反応は果たして社会通念通りでなければならないのか?喪中にあっては日常的なリズムを守ることはいけないのか。主人公の女性との交際はいつも通りであってはならないのか。殺人は突発的な事件によるもので、自分に非が無いとかんがえている人間が懺悔をしなければならないとかんがえなければならないのか。あるいはフランス人だからといって、キリスト教信者でなければならないのか、無神論者にちかいムルソーにとって神とは意味を持つのだろうか。そうした疑問があった。執筆当時にあって、カミュはこうした問題を提示したのだろうけれど、わたしにはこたえは自明のようにおもえた。おそらくムルソーを糾弾する人間の立場を理解しなければ、この小説の衝撃はわからなかったのだろう。その意味で二十歳のころのわたしにはこの小説は理解できなかった。一方、死刑の際に多くの人から罵声を浴びせられたい、というムルソーの気持ちを自分なりに理解していた。それは価値観の違いをはっきりと確認し、死んでいきたいということで、優越感を味わいながら死ぬことではないか、とおもっていた。

エトランジェであること、つまり一つの社会でよそものとして生きるということは、超越的な立場で生きること。そして不条理とは常識に反していることというよりもむしろ、常識を疑い社会通念を構築する知性を持っていること、とかんがえていた。中学時代、学校となじめなかったため自分で生きるためのルールをつくりあげてきたので、それは当然のことだとおもっていた。

その後、学校を終えて生きてきておもった。世の中には多くのルールが存在する。なかには合理的なものもあるけれど、かなりの部分が単なる慣習のつみかさねにすぎない。そして、こうしたルールは世の中では大きな力をもっていて、おおくのひとはそれにしたがっている。それを無視したりさからうにはかなりの力がいる。けれど、ルールを冷徹にみなおしていくことには意味がある。

この本が日本に紹介されたころとは今の日本の状況はかわっている。ルールは弱まっているようにおもうけれど、人があつまって生きている以上、なんらかのルールはある。地縁的なルールは弱まっているかもしれないけれど、時折古典的な価値観が現れてくる。若い人たちを中心に反抗するのは自然なことだろう。わたしには決して難解ではなく、わかりやすい小説と感じられるのだけれど、今、この本はどう受け取られるているのだろう。