関口存男のドイツ語学習法
関口存男というドイツ語学者がいた。この人がドイツ語をまなんだときの話がおもしろい。関口さんは1894年の生まれだ。今読んでも、この人の書く文章はすばらしく、おもしろい。ドイツ語のためのすばらしい参考書も書かれている。
「わたしはどういう風にして独逸語をやってきたか」という文章がある。(著作集第10巻や「関口存男の生涯と業績」などに収録されている。)おもしろく、有益なので簡単に紹介しよう。(中学時代のわたしが読んでいたら、こころのささえになったろう。)
関口さんは中学2年のときに大阪の地方幼年学校に入学する。これは陸軍士官学校にすすむための学校で、実際、陸軍士官学校を卒業している。ただし胸膜炎になったため、軍人にはならなかった。
14才のとき幼年学校でドイツ語をまなびはじめた。1年生の中頃から終わりのころ、「よし、おれはこいつを物にしてやる!」と決心する。
当時の幼年学校のことなので、上級生が下級生をなぐる、などのことは毎日のことだったという。さらに家を離れて寮生活をしていたので、ホームシックもあり、泣いたこともあるという。
ところが一旦、ドイツ語をやろうと決心してからは、いくらなぐられても何ともなくなった。家もおもいださなくなった。そしてこの決心は人に言わなかった。性格が変わるほどの決心をしたという。
では、どのようにまなんだのか。ある日曜日に大阪の丸善に一人出かけていった。そこで、書棚をながめ、レクラム文庫のドストエフスキーの「罪と罰」のドイツ語訳の本を買った。1000ページもある、この分厚い本を読むのだ、という決心をした。
ところが寮にかえり、読みはじめると、最初の1行目からしてまるでわからない。わからないけれど、とにかく「わかろう、わかろう」とおもって、辞書を引き読んでいった。普通の人ならばそこでやめるだろう。けれど関口少年はちがった。わからなくても一人で読みつづける。構文の知識などがほとんどないままに読んでいく。ときおり文を繰りかえし読む。そんなふうにして、わからないまま2年(も!)ほどかけて200から300ページ読んだ。そうこうしているうちに多くの文を暗唱できるようになって、さまざまなフレーズが頭のなかに浮かぶようになった。「なんだか」わかりだしたような気がした。小説の筋がわかりだした。けれど翻訳してみろと言われてもできない。こまかいことはわからない。文の意味はわからないけれど、話の筋がわかる。そういう状態になってきた。
ある日、ところどころ、イヤにはっきりとよくわかるところが出てくるのに気がつく。このときはじめて、意味が分かって読まなければいけないのだ、と気がついた。「横文字で書いたものにも、やはり一語一句ハッキリした意味があるのだ」ということを大発見したという。なんともすごい話だ。
そこで、最初のページをひらいて、はじめの数行を読んでみた。するとピタリと意味がわかる。彼はくるったようになって10ページか20ページを一気呵成に読みながした。おもしろいようにわかる。それからは、2ヶ月ほどかけて今までに読んで来たところを最初から読みなおし、一気に本を読みきる。この時のドイツ語の進歩はおどろくべきものだったという。そして3年生になってからはドイツ語の本を買って読みまくった。
かれはこうした方法を「流読」(るどく)と呼んでいる。そして「わかるとスラスラ読める様になるのではなく」「スラスラ読むとわかるようになる」のだという。
この話にはいくつも興味深い点がある。関口氏も書いているけれど「悪い方法であっても徹底してやると、それが良い方法なのだ」ということ。そして「関心のあることはできるけれど、関心のないことはできない。」そして「自分に切実な関係をもつ事柄においては誰もが天才なのです」という。
幼年学校時代の関口氏の話を読んで、中学時代の自分をおもう。中学時代わたしは学校がいやだった。けれど中学1年のときに、数学を一人でまなびはじめたことによって、わたしはすくわれた。帰宅し一人で机にむかう。その時間はよろこびに満ちていた。体がよわく、ちいさかった。授業はつまらなかった。それでも熱中するものがあったことで、わたしは心ゆたかにいられた。(こんな時期に先生に相談しなさいなどと言われても、本心を言うわけがない。おなじことを関口氏も書いている。)その後も、くるしい状況にいた時期があるけれど、熱中するものがあることで、ゆたかな時間のなかで生きることができた。
狂気とも言える熱中は人をすくう。そしてこうした熱中はとても大切なことなのだ、とおもう。