文学部からはなれたフランス語教育

ずっと以前、フランス語の通信添削を受けていたことがある。そのときの教材と答案が出てきた。そこでここ数ヶ月かけて見なおした。このコースはレベルが上がるにつれてつまらなくなっていった。それはなぜだったのか、よくわかった。

英語教育では、英語を背景文化とは切り離して、まず機能的な道具としておしえようとする。イギリス文化やアメリカ文化についておしえようとはしない。文学にかたよることもない。ところがわたしが受講したフランス語の場合、機能・構造体としての外国語をおしえるだけではなくて、フランス文化をつたえようとしていた。さらに文学部出身の講師が担当し、フランス文学から教材がとられていた。けれど、ある外国語をまなぼうとする人が、かならずしもその文化や文学を学びたいわけではない。わたしは内容に興味をもてなかった。

外国語教育では基本的な1000語ほどの単語を教えた後、用途に応じて単語群を選択する。会話ならば日常語がおおいし、受験用などでは抽象度のたかい汎用的な単語を選択し、教材を構成する。言葉は内容と切り離してかんがえることはできない。用途、内容によって単語の選択はちがってくる。

外国語の文章のむずかしさには2つの要素がある。ひとつは日本語と外国語の構造的なちがいによるむずかしさであり、もうひとつは読者と取りあつかわれる話題との親和性だ。日本語でも内容に興味が持てなかったり、背景知識がないものは読むことがむずかしい。ましてや外国語だ。教材の内容選定には注意をしなければいけない。

たとえば模範解答説明にこんな文章があった。「サンダルですからウェッジソールという訳語ぐらいおもいつくでしょう。」ファッションにさほど興味のない女性や、男性ならば日本語でも知らないことばだし、外国語教育で知らなくても問題ない。こういう単語を適切に訳さなければいけない文章をえらぶのはまちがっている。エールフランスビジネスクラスの席の宣伝文を訳させる問題があった。これなども必ずしも一般的とは言えない内容で、想像しにくい内容の文章だろう。

さらに文学的なテキスト。人の心の繊細なうごきをていねいに記述した文章。こうしたものは文学者には興味があるかもしれないけれど、必ずしもおおくの人の関心対象ではない。むしろ事実をつたえる文章や、説明文の方が良い。外国語は、ある一定の内容をつたえようとするための道具だ。そう定義して教材を構成すれば良いので、文学にかたよるのはまずい。

さらにフランス語の文を理解することと日本語訳をつくることは別だ。ところがこれが意識されていなかった。読みやすい日本語訳を書くには、長い文章は適当にみじかく切り、前後関係を入れ替え日本語としてよみやすくする。こうしたことをしようとしても、むしろフランス語の流れのまま訳すことがもとめられた。文学的な要素を日本語訳にもとめるのはまずい。

フランス語教育を担当する人は仏文学科出身の人がおおい。英語の場合はいまや文学にかたよらないから良いのだけれど、フランス語はまなぶ人がすくないこともあって、こうした問題が発生する。外国語教育と文学教育は別ものだ。

フランス語では入門段階の教材はたくさんある。けれども、現在でも、中級以降のフランス語購読用教材はほとんどない。英語教育の伊藤和夫やドイツ語教育の関口存男などに匹敵する教育者は、まだあらわれていない。

中級以降向けの適切な購読教材が登場することを期待したい。