共感
子どものころ、ことがらが解決しないかぎり、どんななぐさめやはげましのことばにも意味が無いとかんがえていた。
けれど、あるとき、具体的な共感のことばではないけれど、共感しているとつたわるメッセージを受けたことがある。それは、表層的なはげましでも、同情でもなかった。世の中に自分以外にきもちを分かち合える人がいる、考えを共有することができる人が存在するのだ、という感覚には強いインパクトがあった。ことがらが解決しなくても楽になることがあるのだ、とはじめておもった。
それまで、わたしはそんなふうにかんがえた事はなかった。誰にも理解されなくても一人で生きて行ける。80年かそこらの一生ならば、そうやって生きていけるはずだ。感情などは心からむしりとってしまってもいい、とすらかんがえていた。
この経験は、強い印象をあたえてくれた。もちろん共感というのはいつでも誰に対してもできるものではない。ことばを尽くすからつたわるというものでもない。おそらくはなんらかの方法によって心のパスワードが通じ合ったメッセージだったのだろう。いや、ことばすらなくても、そうした人が世の中にたしかに存在するということがわかったことで、世界は変わって見える。この経験はその後、ふかいところでわたしをずっとささえてくれた。
とても貴重な体験だった。